たまっていくペットボトル

理屈と膏薬はどこへでも付く

【雑感】ここ最近の大学教育の議論を見ていて感じたこと


旧帝大と慶応以外は「職業訓練校化」すべき? 文科省の「有識者資料」に議論白熱

実学学術、どちらの世界にも中途半端に足を突っ込んでいるコウモリ的立場からすると、どちらにも、相手を軽視し、敵対しようとする人が一定数いるな、という印象を抱きます。どちらの集団でも、内集団をひいきし、外集団を貶めることで、所属集団への帰属意識を高め、ある種の自己効力感と安心感を醸成していて、そうした結果がもたらされることによって、その認知・行動傾向が強化・維持されているのではないかと推測します。

短期的にみると、自信と安心が醸成されるので、適応的といえなくもない学習行動ですが、中期・長期的、あるいは集団のメカニズムとして見ると必ずしも機能的ではなく、むしろ成長や発展を妨げるような不適応状態になり得るという点では、近視眼的、視野が狭いともいえそうです。ただ、ここ最近の大学教育をめぐるあれこれを見ていると、そうした視点にならざるを得ない程に余裕がなくなっていて、自己防衛的な行動なのかもしれないなという風にも感じます。

敵と味方を単純化し、互いをステレオタイプ的に捉えれば、認知的な節約が可能となります。また、自分の理解できる指標のみを判断の根拠にする、というのも同様の機能があります。これらはこれらで、場と状況を踏まえて適切な使い方をすれば有効な思考パターンですが、勧善懲悪が現実にはほとんど存在しないように、世の中の大抵のことは、シンプルに二分したり、明確な指標だけで全てを測定・評価することは困難です。「実学か、学術か」といった議論も、そもそもこういった単純化された枠組みを超えないことには、効果的な解決法には結びつかないのではないかと思います。

良くも悪くも頭で考えるタイプの人達が、そういった傾向に陥りがちというのは、考えるという長所を自ら放棄しているようで、もったいないなあという気がします。ただ、そうした認知的節約をしなければ、現在の状況に対応できないのだとすれば、やはり世の中の余裕がなくなってきているのかもしれません。